フィリピンへ移住して7年、現在はマニラに住んでいます。朝の散歩はこの公園が一番近くて、楽しめます。リサール公園は、東京ディズニー51haよりも広い58ha 1820年開園ですからアジアでも最も早くできた公園の一つかと思います。
ホセリサールはフィリピンの政治家、医師、作家、画家、詩人でもあり12か国語も話せた国際人。フリーメーソンのメンバーでもありました。
そのホセリサールの名前の公園で私はすでに15回ぐらい訪れています。今回は妹たちと共に朝食を兼ねてこの公園に訪れました。
フィリピンのウエディングは神父様の主導による敬虔なる宗教的儀式、ほとんどの場合がカトリックの教会で行われる。それから、数時間の後に披露のパーティがにぎやかに執り行われるのが普通のようである。
フィリピンの場合、スペインやアメリカとのつながりがありたいていの家庭の結婚式はヨーロッパ、アメリカ、その他アジア各地から親族や友人が出席のもとに行われるので国際色豊かな結婚式となり、その盛大さがそのファミリーの格を表すことになるようである。今回は新婦は国際線のキャビンアテンダントでありより国際色豊かな結婚式となった。私は、新婦の父親の義兄ということで出席しました。”ピカ&リー”の永遠の幸せを祈ります。
フィリピンには5万年前には人類が住んでいたタボンケーブ、パラワン島、2000年前からイフガオ族による稲作が行われており、ヨーロッパ人がはじめて訪れたのはマゼラン、エルカーノ、スペイン、中国からはそれ以前から交流があったようです。アメリカは1898年からフィリピンを植民地化している。文化というものは一方的支配体制の中で形成されやがて程よく融合するようです。つまり、何百年もかけて、
先日、結婚式へ出席のため訪れたマニラから4時間、バターンにある”Las Casas Filipinas de Acuzar ”はまさにフィリピンで世界の文化が融合した世界が観られた。
21世紀後半はこうした文化、文明の融合が程よく調和した地球になるのでしょうねえ! ひょっとしたら元の原始的、狩猟採集社会に戻っているかもしれません!
フィリピンへ移住して7年普段はパラワン島の首都プエルトプリンセサの郊外の丘の上で生活しております。現在はマニラの嫁さんの妹の家で生活しております。マニラ周辺には身内がたくさん生活しておりますから何かとお呼びがかかりますので出費もかかりますがその分生活雑費はマニラは安く手に入りますのでかえって田舎生活より便利かつ安いということになります。
こちらではクリスマス、イースター、をはじめとして結婚式、誕生パーティ、お葬式、その他のセレブレーションは盛大に行われます。
今回は嫁さんの弟の息子の結婚式がマニラから北へ4時間ばかりのタルラック市でありますので妹たちと出席いたしました。
私は人生において三つの選択をしました。 第一番目は、学生時代に”ヒッチハイク446日間世界一周” 大学の3回生を終えてから出発。アメリカ、カナダでお金を稼ぎながらの旅であった。この時は21か国の訪問であった。これもまさに普通の学生とは違った選択であった。 二番目の選択はサラリーマンを辞めて”ペンショングラッツアーノという名の広場づくり” これもまた少数派の選択であった。世界から40か国、わが広場で働いた留学生は15か国。 第三番目の選択はペンション広場づくり23年の間にフィリピンの島々の冒険16度、楽園探しの旅から”南国フィリピンの島への移住生活”とどれをとっても普通の人は選ばない方の道を選んでいったのです。
その三つの冒険で自分の人生を構築したことの意義を振り返りながら皆様と共有しながら我が人生を振り返ってみたいのです。 そのことが私がブログを書く理由です。
クーヨ島へは連れ添いのパラワン州立大学英語教師メーベスハビエルの研究調査に同行した訳です。プエルトプリンセサからクーヨ島まで16時間フェリーボートの中で一夜を明かします。道中スールー海の日没夜明けの素晴らしい光景が見られました。
現地では1週間の生活のため親戚のアパートを借りて生活しながら市長や教育長等々に挨拶して研究調査の便宜を図っていただきました。
このビデオ写真には美しい花に囲まれた小学校7校の訪問やクーヨの街の様子を取材いたしました。是非ともご覧いただければ幸いです。God Bless All !
生まれた家には18歳高校まで18歳大学生活は京都で。世界一周して帰り大学を卒業し他後、大阪や潮岬で働き24歳で再び郷里。46歳で牛窓町で”ペンショングラツァーノと広場を開業。20017年ペンションを廃業してフィリピン共和国パラワン島へ移住。日本時代の思い出の我が家3つをご紹介します。God Bless All !